mmntnem’s blog

徒然と…

メンヘラというスラングによって作られる”居場所”感

 

自己肯定感が低く、自分を責め続けている。誰に向けるわけでもなく、ゆるしてくれ、ゆるしてくれと頭の中で何度も唱える。

いや、私はもう何度もゆるされてきた、そしてこれからもそうだろうと片隅で思いながら ゆるしてくれ と言う。

 

ずっとひとりみたいだ。もしかしたらこれはこの世の真理であって、私がひょんなことにある日突然気づいてしまっただけなのかもしれないが、

病気になってからずっとひとりのようなのだ。

 

私の居場所について話したい。

私は主に3つの拠点を持っている。実家、自宅、恋人の家だ。

安寧の地というものはどこにもない。強いて言えば自宅は何もないので良い。

ここで私は色々なくだらないことや、生きること死ぬことについて考えて日々を過ごしている。私は寮生なのでその自宅もあと1年足らずで失うことになるかもしれない。

実家などは人間との関わりによって居場所を生む、ということ自体に抵抗があった。

人と関わりすぎると熱を出したり、体調を崩すことも理由に含まれる。調整をすることが苦手で、あるのがダメならなしにしてしまえばいい、と考えがちだ。

 

死ぬときのことを考える。希死念慮が始まってから3年が経ちそうだ。

死にたいとフランクに言ってるのかそうじゃないのか、自分でもわからなくなってきた。

ただ、いつか本当に、なんて考える日は多く、死ぬときは自分のエゴで死ぬのだと自分に言い聞かせている。

助けてと周りの人に言いたくない。あの子にもっとこうしてあげたら良かった、となるべく思わせたくない。だからわがままで意地っ張りな自分というものを貫き通して、いつかその時が来たらわがままに死ぬ。誰も悪くなくなる気がして私は満足すると思う。

 

私には強いとか弱いとかが全くわからない。だけどこれが私の正義で、強い意志であるような気がしている。

こんなことをここに書いてしまう時点で私の意志の程度ははかられてしまうような気もする。

私はやっぱり根本的には弱い人間だ。 

 

数年前、自宅にいるときに、メンヘラというコミュニティに頼るという方法を知った。それはタブレットでどこにでも持ち込み可能であることがわかった。すぐに、いつ何時も揺るがない私の居場所となった。人のマイナスと受け取られる特性がコミュニティになることってそんなに多くないんじゃないだろうか。

 

馴染めなかった人、排除された人、話し合える人間がなかなか見つからない人、そういう人たちが集まって、ただなんとなくそこにいるということ。 

はっきり言ってしまうと、私がメンヘラであることで築いた人間関係は希薄なものが多い。が、それが楽なのだ。(あって遊ぶほどに仲良くなった人もいる。)

私はここら辺の認識がおそらく弱く、どうでもいいという体裁でどうでもよくないことをしている。例えば人が死んだときに、ああ、また、でも、と、思う。

 

保険をかけていてもゆるされるのだ。私のツイートは空中を舞うだけだから。

無責任に人間関係をやっていたいだけなのかもしれない。それでも心地いい。

 

私は寛解を目指して治療中だ。

これから、メンヘラを名乗る理由が一つもない人間になるかもしれない。そうなることにアイデンティティについて考えて、不安になることがある。

が、そうなったときには、実家や、恋人の家は本当の居場所になり得る。

 

私はこのはざまにいる状態がとても苦手で、苦しいのだ。前進する努力を長く怠って来た人間だ。

それでも、私は新しい居場所を探さないといけない。

それは私のためというよりは、周りの人間のためかもしれないが、周りの人間が望むことを私が実行することが私のためへと戻ってくるのかなと思ったりする。自分の判断はいつからか信用のできないものになっている。

 

最終的に、離れることは考えにくいので、コミュニティを避難所という位置付けにしたい。メンヘラがよくなれば、今まで交流のあった人たちとは友人として関わっていきたい。

 

最近の私は、病気のことばかり考えて、おかしくなりそうだ。
もっと別のところに手を伸ばさないといけない時期が来ている。